topTOP インタビュー 人生100年時代に学びたい雑草魂と組織マネジメント論 トライバルメディアハウス代表・池田紀行さん(46歳)

人生100年時代に学びたい雑草魂と組織マネジメント論
 トライバルメディアハウス代表・池田紀行さん(46歳)

インタビュー 2019.11.08

noteやTwitter(フォロワー1.5万人)で、仕事との向き合い方やマーケティング論について発信し、若者層を中心に支持が厚い。

「道端に生える雑草だった」。
そんな池田さんは20代、30代と寝食を忘れて仕事に取り組んだ結果、有名マーケターにまで登り詰めました。
しかし、その経験がマネジメントで失敗を生んでしまいます。

現在はどのようなマネジメントを行っているのでしょうか?

時代は変わり、人生100年時代に突入。
多様な働き方や様々な生き方が存在する中、若者はどう生きればよいのか――。
池田さんのこれまでの人生や仕事から、答えを探ります。

 

経歴

1973年神奈川県横浜市生まれ。営業、マーケティングコンサルタントなどを経て、34歳で「株式会社トライバルメディアハウス」を創業。大手クライアントのソーシャルメディアマーケティングや熱狂ブランド戦略などを支援する。年間50本以上、マーケティングに関する講演活動を行っている。

「僕は道端に生える雑草だった」

―34歳で会社を設立し、現在は150人規模の会社を経営。池田さんの生き方に憧れる若者は多いと思います。

道端の雑草や石ころみたいな僕がここまで至ったのは、単に人一倍努力をしただけです。
人が仕事をしているときに倍速で仕事して、人が遊んでいるときも仕事して、人が寝ているときも仕事をする。

 僕がすごいのではありません。
「俺の雑草具合知ってる?」 と逆に聞きたいですよ(笑)。

僕が東大法学部卒とか、先祖代々経営者一族みたいな血筋だったら「池田さんにしかできないですよ、そんなの」と言われてもしょうがないですが、僕の出身大学の偏差値は50以下ですからね()。

 

―「雑草具合」について教えてください。

僕は20代の頃、中野区で17m²のワンルームに一人暮らししていました。
玄関のドアを開けたまま突っ伏して倒れ、そのまま朝を迎えることは一度や二度じゃありませんでしたね。早朝、新聞配達のおじちゃんに「お兄さーん、また寝てるよこんなところで。風邪引くよー」みたいな。

こんなこと言うとまた「時代遅れの昭和スタイル乙www」とか思われそうですが(笑)。

僕が20代の頃は、「働き方改革」とは無縁の時代でした。暇の「ひ」の字も感じたことはないくらい好きなだけ働けて。
仕事量も多かったですが、それ以上にやればやるほど自分が伸びていき、成果に現れ、どんどん年収が上がるのが楽しくてしょうがなかったんです。

 

 トライバルメディアハウスでは、「人の2倍働いて、人の2倍遊べ。すべてが仕事で、すべてが遊びである」という言葉を普段からスタッフに伝えるようにしています。僕はその言葉通り、「遊んでいるうちに寝る、勉強しているうちに寝る、仕事しているうちに寝る」。

そんな20代を過ごしていました。

 そんな経験から、昔は「寝ようと思って寝ているうちはまだまだだよ」とよく言っていました。
このご時世なので、さすがに最近は言わないですけども。そういう20代があったから、29歳でマーケティングコンサルタントとして独立し、34歳で起業して、今(40代)があるんですよね。
何を始めるのにも遅すぎることなんて無いと考えていますが、それでもやっぱり20代で人生決まるぞって思っています

 

―エリート街道まっしぐらかと思っていたので意外なお話でした。池田さんはどんな人生を送ってきたのでしょうか?

父親は大工の棟梁でした。親戚一同も肉屋、八百屋、ラーメン屋など店主ばかりの家系で。
スーツを着た大人を見て育つことはなく、将来は自分も何かしらの店主になるんだろうと漠然と感じて育ちました。

それで高校生3年の時、「俺も大工になるわ」と父親に話しました。
返ってきた返事は「お前は大工に向いていないからやめとけ」。
「おいおい、高校3年の夏にどうしてくれる」と思いましたよ() 

結局大学に進学し、新卒で駅前留学のフレーズで有名な英会話学校に勤めました。

入社した1995年当時は、「マルチメディアの寵児」として、社長が注目を浴びていましたし、とても魅力的な会社だったんですよ…。

 

―新社会人生活はどうでしたか?

英会話学校を訪れた人に契約をしてもらう営業の仕事からスタートしました。

裁量権のある会社での営業は本当に楽しかったですよ。「どうせやるなら1位を獲る!」と頑張って、営業では1,000人中3位、2年目の支店長時代には、全国280校中1位を獲ることができました。自分が社会で通用することを実感した初めての経験でした。

成果を出せばどんどん昇進していける、自分の力だけでどこまでいけるのか挑戦したかった私にとってぴったりの会社でした。

 

―その後、26歳でマーケティング業界に転職しています。

「今は営業が楽しいけど、将来は社長になるのが夢だったよな」と思い出しまして。

 入社1年目の時にエリアマネージャーから「あなた元気だから、しばらく東北地域の立ち上げやってきて」と言われて突然転勤したのですが、友達も彼女もいないところでスゲー暇だったんです。普段は読まないような自己啓発雑誌(BIGtomorrow)で落合信彦先生に喝を入れてもらっていたら、隣のページに「中小企業診断士」の広告があったんです。

 

中小企業診断士は経営コンサルタントの国家資格です。経営コンサルタントが社長になったら会社潰れなさそうじゃないですか?()
まあ、当時は若かったので、そんな安直な思考回路でした。

 

その後、営業の仕事をしながら資格の学校に通い、25歳の時に中小企業診断士の資格を取得しました。 その学校で、僕の天職になった「マーケティング」と初めて出会ったんです。

 マーケティングに関する講義はおもしろくて、どんどんのめり込んでいきました。 資格の勉強を通して、世には「コンサルティング」というおもしろそうな仕事があることを知り、転職活動を開始。

「あなたの学歴と職歴ではコンサルティング業界への転職は100%無理!」と、いまも元気な某人材エージェントのキャリアアドバイザーに断言され、「こいつ!いつか絶対に見返してやる!」と、怒りをバネに頑張りました(笑)。

 

結局、マーケティングコンサルティングを行っている従業員30人の小さな会社に拾ってもらい、26歳からマーケティング業界でのキャリアがスタートしました。
そして、29歳で独立し、34歳で起業、現在に至ります。

 

「1人の1万歩より1万人の1歩」にならって編み出した池田流マネジメント論

―働き方改革や働く価値観が多様化する中で、トライバルメディアハウスでは社員教育やマネジメントはどのようにしていますか?

僕はスタッフに何も強制はしません。教えるし、提案するし、ときに推奨もするけれど、強制はしない。スタッフもひとりの大人ですから、決めるのは本人です。

特に最近は価値観も人生観も幸福感も多様です。

「別に成りあがらなくてもいい、業界で一目置かれなくてもいい。私は等身大で仕事をしていきたい」という人は、それでいいと思います。

ただ、「人よりも上に行きたい」「業界で一目置かれたい」「いつか誰にもできない最高の仕事をしたい」と言っているのに、行動がともなわない奴は嫌いです。「おや?口だけなのかな?」と詰めます(笑)。

この会社を創業して13年目ですが、4~5年くらい前までは、「なんでみんな俺みたいに努力しないんだろう」と思っていました。

昔は、「こんな頭の悪い俺でも頑張ればここまでできたんだから、お前の成長が遅いのは努力が足りないからだ!」という生存者バイアス山盛りな考え方をしていました。

でも、それを辞めてだいぶ楽になりましたね。

 

―考えを転換したきっかけは何ですか?

1番のきっかけは、あるベンチャー気質が強い超大企業が歩合制の強い人事評価制度を撤廃したと、その会社に勤める知人から聞いたことです。

以前は人事評価制度で歩合給制が強く、20人分くらいの営業成績を出せる営業マンには数千万円の年収を与えていたそうです。
それを、どんなに成績が良くても(逆に悪くても)評価や年収にそんなに傾斜をつけない制度に変えたと。数千万円の年収をもらっていた人たちは、一気に例えば1000万円とか1500万円に年収が落ちちゃうわけですよね。それをやられると、超一軍級の人たちは「こんなに成果を出しているのに評価されないならもういい」と辞めてしまう。

「一軍に辞められちゃ、会社として困るんじゃないの?」と思いました。でも違った。

 

これからは新しい世代がどんどん入ってくる。その子たちに対して成立しない人事評価制度や頑張らせ方はできない。一流のトッププレイヤーの人たちだけで会社を回していく時代はもう終わったんだよと言われました。

 

年収を一気に下げたら、下げられた人たちは辞めてしまいます。
その代わり、すべての人の年収を2階級上げて、みんなで1歩ずつ前に進む。
1人の1万歩よりも、1万人の1人1歩で1万歩を目指すという評価制度に変えたわけです。

 「実力主義で有名なあの会社でさえ、ここまでドラスチックに評価制度を変えたということは、もうそういう時代なんだな」とすごく納得させられました。

そういう世の中に適応して会社を経営していかないと成立しないんだなと。

 

最初の質問は「最近の活力はどう?」

―社員とのコミュニケーションを密にするために取り組んでいることはありますか?

日々現場で奮闘する部門長と僕と2人だけで話す、1on1ミーティングを5年ほど前から続けています。

僕が最初にする質問は「最近の活力どう?」です

「やる気がぜんぜん出ず、1ミリも仕事したくないという状態が0で、もう最高!仕事が楽しくて仕方がない!という状態が10だったら、今何点?」といった具合です。すると、例えば「先月8でしたけど、今6くらいですね」、「7だったものが9になりました」という回答が返ってきます。

僕は、仕事の活力は「承認・達成・成長」から得られると思っています
マネージャーや部門長は様々な仕事を行っていて、高負荷・高ストレスです。

活力が下がってきているのが最も良くありません。
なので、活力が上がってきているなら、「今の好調をキープするために僕が何か手伝えることある?」と聞きますし、活力が下がってきているならその原因を特定して、解決策を一緒に考えます。部門長との1on1ミーティングではそんなことをしています。

1か月に20人と1on1をするのは、凄まじく大変です。

毎週水曜日はそれで潰れますが、逆に「今までこうしたことをやらないで、よく会社を経営できていたな」と思うようになりました(笑)。

 

―1か月に20人…。何がそこまでさせるのでしょうか?

5年位前までは、「お前はもうマネージャーなんだから、セルフマネジメントしながら、チームビルディングと組織の定量・定性目標を達成させることがミッションだ。甘ったれずに自分で考えて動け」というスタンスで部門長のマネジメントをしていました。

 過去に、ある部門長から「池田さん、ちょっとしんどいので1on1やってください」と言われても、「弱いなあ」とか「部門長としての自覚が足りないのかな」と思っていましたし、「部門長になったんだから、ひとりで解決してほしいんだけどな」と、間違った思い込みをしていました。

一人で思い悩み、考えて考えてもがき苦しんだ末に問題を解決する経験を積まないと、一人前の長になれないと思い込んでいたんです。

でも、それは大きな間違いでした。

 

その部門長が会社を辞める際、あのとき、僕は、本当に池田さんに話を聞いて欲しかった。悲しかったですと打ち明けられました。
その時に、ああ、俺はなんてバカだったんだ…。とんでもなく申し訳ないことをしてしまった」と猛烈に悔い、もう絶対に同じ過ちはしないことを誓いました

変わったのは、それからですね。

毎日現場で奮闘している部門長と、少なくとも1か月に1回、たった1時間でも、現状や活力、困りごと、頑張っているなら褒めてあげることをするだけで、すごく気が楽になったり、もっと頑張ろうと思えたりするのなら、僕の時間なんて安いものですよ。

 

「社会を良い方向に変えたい」 池田さんの人生のゴール

―現在、46歳ですが、振り返ってみて20代~40代は、それぞれどんな生き方や働き方をしていましたか?

20代は、例えるなら、走るフォームを勉強して、筋トレし、跳び箱の踏切板を作って全速力で助走する時期だと思っています。できるかぎり、良いフォーム、良いスピード、良い踏切板で、良いジャンプをしてほしい。それが、その後の空中での演技(=人生)に直結するからです

20代を全速力で突っ走って踏み切ってからが30代です。
「どこまで高くジャンプして、良い技を決められるのか、試行錯誤する」イメージです。
実績や経験は、20代の時よりはありますが、40~50代の人たちと戦って全勝できるかというとそんなわけはありません。
なので、結局すごくもがき苦しみながら、がむしゃらに働いていましたね(笑)。

20代はとにかく成り上がるために仕事をしていたのですが、30代は実績を作るために全力で働いていたと思います。
週末も会社に来てずっと本を書いていました。
機会をいただき、30代で共著も含めて9冊の本を書きましたが、1冊約10万文字もの量をアウトプットすることを通して、自分の頭の中にあった暗黙知を形式知化して吐き出すことができました。
理論化とかフレームワーク化とか、再現可能な法則化みたいなものが、30代で一気に自分の中で知恵として形成された時期だったと思います。講師としての登壇数や、雑誌やWebでの露出も増え、個人や会社のブランド化もある程度進められたと思っています。

仕事観は20代~30代では変わらなかったのですが、40代になって一気に変わりました。

 

―どう変わったのでしょう?

当時はまだベストセラー『ライフシフト 100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット 著/池村 千秋 訳,東洋経済新報社,2016年)が出版される前だったので、人生設計を男性の平均寿命80歳、女性90歳で考えていました。40歳を過ぎた時に、なんだかフルマラソンの折り返し地点をくるっと回った気がしたんです。

分かります?(笑)
40歳までは往路で、41歳からは復路に入って、「もう一歩一歩死に近づいて行くんだな」って強烈に感じたんですよ。
「自分の人生を最後どうやって収束させていくのか」みたいな死生観を強く感じ始めたのが40代です。

「一体何のために仕事をして、自分や会社の仕上がりをどこに持ってくのか」ということは、「会社がある程度潰れないな」というところまで成長して、少しだけ一息ついたってこともありますけど、「死」や「事業継承」を強く考えるようになりました。

 

―ご自身の中で、人生のゴール…、今後どうしていきたいというのは何かあるのでしょうか?

誰でも、人生のゴールは幸せになることだと思います。僕もそうです。
40歳を過ぎたいま、僕が何に最高の幸せを感じるかというと、人や社会のため、あなたが必要だとか、社会の中で生かされていることを実感することです。
自分のために時間やお金を使っている時ではないんですね。

 

自分の人生、たった80年や90年の中で僕のやったことが何か残って、池田の「い」の字も、トライバルの「ト」の字も歴史になんて残らなくて良いんですけど、結果「なんか(社会が/業界が)良くなったね」っていうことが残せないと、「生きた意味ないな」と40代から強烈に感じるようになりました。
「トライバルが企業のマーケティングを変えたよね。企業のマーケティングが変わったから、ブランドと顧客の関係も変わって、生活が豊かになったよね」と、社会や業界を良い方向に変えることが僕の人生のゴールです。

会社は、社会の公器だと言われます。本当にその通りで、僕はこの会社(トラバイルメディアハウス)が提唱していること、やっていることは、素晴らしいものだって信じていますし、この公器を活用して世の中を明るく楽しくワクワクしたものにしたいと考えています。

売上や利益を最大化したいとか、領土を拡大して世界制覇をしたいとかじゃなく、自分たちの信じる正しいことをやって、社会に良い変化を起こしたい。でも、150人(現スタッフ数)で変えられる社会の変化の総量なんて、そんなに大したことはない。僕は「死ぬまでにトライバルを1万人の会社にしたい」と言っているのですが、1万人の会社になると社会にある程度の大きなインパクトが与えられるはずです。

社会に良いことをするだけじゃなく、一定規模以上の変化を起こす。その大きな変化は、到底ひとりじゃ起こせません。
だから、「早く行きたいならひとりで行け、遠くまで行きたいならみんなで行け」というアフリカの格言が好きなんです。
1万人の仲間(スタッフ)と、そういった世界を実現させたい。

40代になって、こんな歯がガタガタ浮くような大仰な使命を掲げられるようになりました。
カッコつけてるんじゃなく、とても自然に口から出るようになった。歳を取ったんですかね(笑)。

 

「若い世代は青い炎。表面上分かりづらいだけ

―壮絶な20代のお話を伺いましたが、池田さんからすると今の若者にもどかしさを感じることはありませんか?

若い人たちは青い炎の子が多いので、分かりにくいですよね。「本当に燃えているの?」と(笑)。
僕ら昭和世代は、赤い炎がメラメラ燃えていないと、「お前は情熱が足りていない!」と思ってしまいがちです。

でも、実は青い炎のほうが赤い炎より熱いですよね。
これまでのような長時間労働や、髪を振り乱して取り組む、みたいな情熱の注ぎ方と違うだけです。

若い世代は、やる気がないわけじゃない。
すごく熱い思いを持っているけど、表面上そうは見えていないだけだと思います。

 

あと、昭和世代に比べると、高校や大学、会社選びで自分の思いがすごくシャープかつ鮮明になっている若者が増えていますよね。
ものすごく考えているし、賢い。

なのに、社会人になると「自分は何がしたいのか?」「何ができるのか?」「何者になりたいのか?」「何者になれるのか?」と、キャリア迷子になる子が少なくない。昔は、アイデンティティクライシスは、定年後のおじさんがかかる病でした。でもいまは、情報と選択肢が膨大にあり、かつモノやコトによって得られる幸福感もコモディティ化しているので、それが早い時期にやってくるんですね。

 

―池田さんは20代の頃に圧倒的な「量」をしてきましたよね。やはり20代では質より量が大切?

「量と質のどっちがいいですか」と聞かれれば、それは当然「質」に決まっていますよ(笑)。

もちろん質が判断できるのであれば質で頑張ればいいのですけど、20代だと難しいと感じます。
相手のクライアントは30代や40代、場合によっては50~60代のプロフェッショナルが多い。20代の若手が限られた時間の中で仕事をして、業界の諸先輩方を納得させることができる質の高い仕事を短時間でやり切る。果たしてそんなことできるのか?と。

少なくとも、自分の20代の時を振り返ってみると、何が必要で何が不要なのか、どこはほどほどで良くて、どこに一球入魂すべきか、そんな分別はまったく持ち合わせていませんでした。とにかく全部、全力。
僕がバカだっただけなんですかね?(笑)

「質が分かるようになるまで、量で凌駕しないと質を追求するレベルにまで達することができない」というのが僕の持論です。
これはもう誰に何を言われても、仕事の質について理解できるようになるまでは、とにかく量をこなすしかないと思っています。

それが分からない中でも、1歩1歩進んでいくしかありません。歩みを止めさえしなければ、少しずつ景色が変わるので、新しい発見があるんですが、やりたいことが定まらないからと1歩も身動きがとれなくなってしまう若い子が結構います。

質が分からず、無駄や失敗が怖くても、ゴールが見えなくても、とにかく前に進んでみるしかありません。

 

―ゴールが見えなくても前に進んでみることが大切…。

だって、僕自身、20代の時に見えている景色は相当狭かったです。
そもそも世の中で、どれくらいの仕事知っているの?という話です。知らない職業は目指せないし、知らない課題は解決したいと思えない。触れたことがない世界に興味を持つことはないんです。自分探しをするのなら、もっと広い世界ですべきです。「自分が何者になりたいのか」を何個の中から選ぼうとしているんだと。

ちょっと哲学的になってしまいますが、自分を知るためには他人との違いから自分を眺めてみると解像度が上がるはずです。

考え込んで「自分はこうだ」と探すのではなく、「他人と違って自分はこうだ」とヒントを得るんです。
できる仕事を増やして、多くの人に会い、色々な経験をして、「自分はこれが得意だ」「これをやっているときが一番楽しい」「逆にこれにストレスを感じる」と理解が深まってくる。考えるんじゃなく、感じるんです。

僕も20代の頃はたくさん悩みました。

でも、その不安や悩みに向き合いつつ、考えながらも、とにかく圧倒的な量の行動をして、
「これじゃない」「これじゃない!」「これじゃない!!」
と経験を重ねた結果、天職に出会った。
「見つけた」というより、「旅の果てにたどり着いた」という表現の方が正しい気がします。

考えて、行動すること。
シンプルかもしれませんが、出来ていない人は多いはず。1に行動、2に行動、3~4も行動、5も行動。是非意識して動いてみてください。

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